ゆうあいの歴史

地図にない村、ゆうあいの郷が漁火の見える丘に誕生して50年のときが流れようとしています。 私たちの物語は、小さな保育園から始まりました。

創設期:生涯教育の理念を掲げて

目指したのは器づくりではなく、障がいのある方達を一生涯にわたって支えることのできる体制の構築、「生涯教育」でした。それは各世代に応じた発達の場を保証し、一人ひとりの可能性を引き出し、社会自立を支えていくための総合的なシステムづくりでした。

赤い屋根のおしま学園(昭和42年9月撮影)と遊ぶ子ども達

新生園での畜産作業(左上)明生園(右上)明生園ぬいぐるみ制作(下)

雪の中、七重浜の会社を目指す

自治組織「はまなす会」(上)テレビ取材で訪れた坂本九氏と(下)

母子訓練の様子

おしま学園の誕生

1967年(昭和42年)

10万坪の土地に、ついに障がい児のための児童施設おしま学園が誕生しました。この土地は「ゆうあいの郷」と名づけられます。

おしま学園は児童4名でのスタートでしたが、同年末には60名の定員となります。

まだ人が住むための最低限のインフラも整っていませんでしたが、厳しくも美しい自然環境の中で、職員達は男女関係なく子どもたちと一緒に畑を耕し、牛を飼い、水を汲み、建物を作りました。

職員達がやるべきことは山ほどありました。
日中はスコップを持って肉体労働に励み、資金繰りに奔走し、地元住民の理解向上にも努めました。夜は子どもたちを寝かしつけた後に勉強会やケース会議、徹夜の事務仕事も珍しくありませんでした。

赤い屋根のおしま学園(昭和42年9月撮影)と遊ぶ子ども達

明生園と新生園の開設

1968年(昭和43年)

おしま学園の翌年には堰をきるように成人施設明生園(女子)と新生園(男子)が開設されました。

子どもは成長して誰しも大人になります。子どもの施設であるおしま学園と、大人の施設である新生園・明生園の開設によって「ライスフテージに応じた支援」の基本形が出来上がりました。

明生園が対象とした成人女性の施設は当時の北海道では珍しいものでした。障がいのある女性は、人目につかないようにしてひっそりと家の中に匿われていることが多い時代だったのです。明生園はそうした人たちに焦点をあて女性の社会的自立援助を主な目的としました。

開設から5年後の昭和48年にはパン工場を稼働、地域の評判を呼びます。トウモロコシの皮を干して作った「ゆうあい人形」はおしまコロニーの手作り製品の顔となりました。

新生園での畜産作業(左上)明生園(右上)明生園ぬいぐるみ制作(下)

おしまコロニーと目指す姿

昭和40年代からは国の施策で重度障がい者の巨大入所施設であるコロニーが各地で建設されはじめました。何百人という利用者を同一敷地内で生活させ、終生保護していくものです。

ゆうあいの郷の施設群もいつしか「おしまコロニー」と呼ばれるようになっていきます。

しかし、同じコロニーという呼び名でも、構想の段階から目指す方向性は全く違っていました。おしまコロニーの理念は「生涯教育」、それはつまり、各世代に応じた発達の場を保証し、社会的自立を支援していくための総合的なシステムづくりです。当然のことながら、そのフィールドは施設の外へも目が向けられていました。

一方で、理念が先行することなく、目の前で支援を必要としている方たちに必要なものを一つずつ用意し、根拠のある実践をしていくことを基本姿勢としていました。この基本姿勢は創設期に培われたものであり、その後全ての事業展開に貫かれていくことになります。

施設から地域へ、最初の職場実習

1970年(昭和45年)

ゆうあいの郷が雪に閉ざされた冬、新生園の春先までの作業場面を七重浜の水産会社に求めました。通勤や労働はとても厳しいものでしたが、6ヶ月間の実習でリタイアする人はいませんでした。

その真面目な態度や姿勢が評価され、会社から数名を雇用したいという話が持ちかけられます。施設運営上の事情もありましたが、最後は本人達の意思が尊重されました。実習で自信をつけた彼らのなかに「施設に戻りたい」という人は一人もいなかったのです。

この時の判断は、その後のおしまコロニーの「社会自立」「地域移行」への推進を決定づけることになります。

雪の中、七重浜の会社を目指す

はまなす寮(通勤寮)の開設

1971年(昭和46年)

昭和46年7月、旧七重浜保育園園舎を改装して、はまなす寮が開設されます。施設を出て就職を果たした彼らに、暮らす場所を用意するためでした。

社会自立を進める中で、施設と地域の狭間で明らかになる課題が次々とフィードバックされ、その後のおしまコロニーの施設整備や自立体系に大きな影響を与えていくことになります。

「施設から地域へ」というこの独自の手法と成果は全国的に見ても例がなく、はまなす寮の実践は先駆的なものとして注目を集めました。手厚い支援体制のもと300名を超える方たちが成人施設から出て、地域生活を獲得していきます。

多くの結婚家庭も誕生しました。はまなす寮を経てカップルになった夫婦は現在までに20組以上を数えます。結婚式は当事者たちによる自治組織「はまなす会」の主催でホテルや式場などで執り行われました。

施設という集団生活から、共同生活を経て、最終的には一人ひとり違った個別的な生活の実現を地域というフィールドで目指していく。
大切にしたことは、施設やその集団ではなく、徹底して「一人ひとり」という姿勢でした。

自治組織「はまなす会」(上)テレビ取材で訪れた坂本九氏と(下)

早期 地域療育

1973~75年(昭和48-50年)

その後は施設から地域に向かう流れの中で、より早期からの地域療育に取り組み始めます。児童施設おしま学園では入所児童の低年齢化が進み、昭和49年には3歳児の受け入れが始まりました。

幼い子ほど親元で育つのが望ましいことは明らかですが、当時は障がいのある幼児や、不安や疲労をかかえる家族に対する社会的サポートはあまりに不十分でしたし、障がいに起因する様々な問題へのアプローチは、早ければ早い方が良いとそれまでの実践からわかっていました。

それらを背景に、在宅児のための母子訓練(5泊6日/任意事業)を開始し、親子一緒に宿泊して訓練や助言、職員と合同の勉強会などが行われました。当初は子どもの療育が中心でしたが、次第に母親やその家族へのアプローチに重点が置かれていきます。参加者は北海道だけでなく、遠く東北地方からも集まりました。

事業開始から5年間で354組の親子が参加し、昭和54年には北海道の単独事業として制度化され、翌年には国の制度事業となり、現在の在宅支援事業の先駆けとなりました。

母子訓練の様子

早期療育を担う3つの柱

母子訓練の開始からまもなく、おしまコロニーの早期療育を担う3つの柱ができました。

1「母子訓練」(その後「巡回療育相談」に)
2「おしま学園の短期入所」
3「幼児トレーニングセンターつくしんぼ学級」(昭和50年開設の児童通園施設)

この3つの事業を中心に、幼稚園(昭和50年ゆうあい幼稚園)や新しい保育園(昭和55年浜分保育園)も加わって、おしまコロニー早期療育部門が体系化されていきます。

施設の枠を超えた地域療育活動は、やがて昭和60年のおしま地域療育センターの開設へとつながっていきます。医師や看護師、各療法士らの専門職を配して医療機能(ゆうあい会石川診療所)を持つことにより、乳児期からの対応を可能にしました。

ライフステージの入り口を支える機関の開設によって「生涯教育」の志は一つの結実を見たと言えます。乳児期からの対応は、肢体不自由など身体障がいの領域に踏み込むことも意味しました。
その後、おしま地域療育センターは、地域の早期療育そのものを支える社会資源として必要不可欠な存在となっていきます。