ゆうあいの歴史

地図にない村、ゆうあいの郷が漁火の見える丘に誕生して50年のときが流れようとしています。 私たちの物語は、小さな保育園から始まりました。

拡充期:必要とされるものは創る、実践と体系化へ

制度があろうとなかろうと、障がいのある方一人ひとりの人生や暮らしを充実したものとしていくために、必要とされるものや仕組みを一つずつ整えて行きました。実践が次の必要を生み、また実践を重ねる。おしまコロニーの事業展開は、後から省みると必然と呼べるようなものばかりでした。

特殊学級の作業学習

ゆうあい養護学校高等部

エリック・ショプラー教授と(上:ノースカロライナにて/下:来日時)

侑愛荘(上:夏祭り/下:地域の子供達とお神輿を担ぐ)

ゆうあいの郷の特殊学級

1968年(昭和43年)

当時、北海道で特殊学級のある学校は数えるほどしかなく、知的障がいのある子どもたちの多くは教育を受ける機会に恵まれませんでした。

しかし「障がいがあるからこそ、必要とされる教育がある」という信念のもと、ご家族の方々と共に上磯町と何度も話し合いを重ね、上磯町立石別中学校の特殊学級が開校されました。

建物はゆうあいの郷敷地内に自前で用意し、この特殊学級は昭和54年に養護学校が義務化されるまで続きました。

その後、道立の七飯養護学校に移管され、今日までおしま学園分校として続いています。長い歴史を数える特別支援学校(小学部・中等部・高等部)として、おしま学園とは強い連携協働関係にあります。

特殊学級の作業学習

ゆうあい会診療所の開設

1971年(昭和46年)

医療は人が健康な生活を営む上で欠かすことのできない領域です。しかし、ゆうあいの郷近隣には病院がなく、当時230名を数えた利用者の方たちの健康を守っていくためには診療所が必要でした。

そのため、昭和46年に自分たちの手で、ゆうあい会診療所を開設します。必要に迫られてつくった診療所ですが、障がいのある方たちを総合的に支えていくうえで、医療分野を自前で用意することは必要不可欠との考え方に裏付けられたものでもありました。

ゆうあい養護学校高等部

1978年(昭和53年)

社会で大人としていきていくための土台作りを目的とした、ゆうあい養護学校高等部(全日制課程普通科)を認可開校します。

これによって、義務教育である小学校は公教育、それ以後はゆうあい養護学校高等部による私学という教育体制が確立されました。2年後には寄宿舎も開設、入学希望者は全道のみならず全国各地から集まりました。

カリキュラムの大きな柱の一つであった作業学習では、職場実習や社会体験活動を取り入れるなど、卒業後の社会自立を意識した実践的なものでした。

ゆうあい養護学校高等部

情操教育・表現活動への取り組み

ゆうあい養護学校高等部の一方では、ほかの学校では受け入れてもらえないような、重い自閉症の子どもの姿もありました。

他の成人施設と協力しながら、障がい特性に合わせた学習指導をおこなっていくようになります。また、同校ではハンドベルやハープなどの楽器を用いた音楽活動など、情操教育や表現活動にも力を注ぎました。ハープではプロからの指導も受けるなど、現在まで交流の続くご縁もあります。

500余名を送り出したゆうあい養護学校は、公立の養護学校の設置が進むなか、私学としてのパイオニア的役割を終え、2009年に惜しまれつつ閉校しました。

第二おしま学園の開設

1978年(昭和53年)

年長自閉症児を対象とした専門施設、第二おしま学園を開設します。当時は自閉症児の専門施設という事業種別はなく、知的障がい児施設として認可を受けました。

全国各地から、対応が非常に困難になっている重い自閉症の児童が集まりました。2年後にはようやく国が自閉症児の専門施設を認める法改正をおこない、全国で初めての第二種(福祉型)自閉症児施設として認可を受けることになります。

しかし、自閉症児が増え続けるおしま学園や、ゆうあい養護学校高等部と連携しながら個別指導や生活訓練など、様々な取り組みが続けられたものの、それでも目覚しい成果を得るまでには至りませんでした。

TEACCHプログラムとの出会い

1986年(昭和61年)

自閉症児のための手立てに奔走する中、以前より交流のあった佐々木正美氏(当時、神奈川県小児療育相談支援センター長)を通じて、TEACCH(ティーチ)プログラムに出会い、これが自閉症支援における大きなターニングポイントとなります。

さっそくそのアイディアを取り入れようとアメリカのノースカロライナ州立大学に幾度となく職員を派遣します。大場自身も自分の目で確かめ学ぼうと現地を訪れました。

TEACCHとは「自閉症とその関連する領域にあるコミュニケーション障がいのある子どもたちの治療と教育」という意味の略です。

自閉症を治すための治療や支援をするのではなく、自閉症の人たちが自立的に活動し、社会との共生を目指すために行われるプログラムで、自閉症の人たちの苦手な部分や不適切行動に着目するのではなく、優れた特性や適切な技能を発揮してもらう視点を重視することを特徴としています。

ノースカロライナ州立大学のエリック・ショプラー教授とそのスタッフによって創案されました。

エリック・ショプラー教授と(上:ノースカロライナにて/下:来日時)

自閉症支援の道筋と体系化

平成3年にはエリック・ショプラー教授とそのスタッフが来日、研修会の開催や、実際の取り組みを見学してもらい、助言や評価を受けました。次第にTEACCHプログラムのアイディアを取り入れた実践に効果が確認されるようになり、進むべき自閉症支援の方向性に確信を深めていくこととなります。

平成5年からは、第二おしま学園(わかくさ寮)で国の制度事業である強度行動障害特別処遇事業を開始しています。

また、第二おしま学園の開設から10年後の昭和63年、ご家族などからの強い希望を受けて、成人の自閉症のある方を対象とした星が丘寮を開設します。

これによりおしまコロニーにおける自閉症支援は一本の道筋をつくることができました。おしま地域療育センターでの早期療育に始まり、幼児期のつくしんぼ学級、児童期の第二おしま学園、そして成人期の星が丘寮へと、TEACCHプログラムのアイディアを柱に体系化されて行くことになります。

高齢期の支援:侑愛荘の開設

1976年(昭和51年)

やや遡りますが昭和51年には高齢者のための施設として侑愛荘が開設されました。知的障がいのある高齢者を対象とした専門施設は当時全国的に見ても例が少なく、珍しいものでした。

しかし、障がいのある方たちの一生涯を支える体制づくりを目指すにあたり、人生の締めくくりをいかに支えるかというテーマは大きなもので、その開設は必然とも呼べるものでした。

開設時46歳だった平均年齢は現在72歳(平成29年時点)となりました。一人ひとりにとっての終の棲家を目指した取り組みが続けられています。

私たちはどこまで、どのように人の人生を支えることができるのか。これからも試行錯誤を続けながら、この深遠なテーマに向き合っていかなくてはいかないでしょう。

侑愛荘(上:夏祭り/下:地域の子供達とお神輿を担ぐ)

〜街の中で暮らしたい〜 地域の中で生活するための様々な支援

通所の風景

おしま屋の前身、おしま第三共同作業所

グループホームいしべつ荘

通所の始まり:函館青年寮

通勤寮「はまなす寮」を中心とした取り組みは一般企業などへの就労が可能な方たちが中心でしたが、障がいが重く一般の職場で働くことが難しい方たちの「街の中で暮らしたい」という声に応えて生まれたのが、昭和50年に開設された函館青年寮です。

初めて函館市内に設置された施設で、立地条件の良さから当時はまだ珍しかった通所部門を併設し、働く(福祉的就労)営みを運営の中心に据えました。

それまでは障がいのある方は「家庭か、(入所)施設か」という風潮が一般的でした。出退勤するための路線バスに乗っているだけで奇異の目で見られた時代でした。函館青年寮の通所部門も開設後しばらくは申込者がなく、3か月後に6名でようやくスタート、定員の20名を満たすまでにも一年を要しました。

しかし、通所施設の存在は「家(親元)から通う」という生活スタイルを徐々に定着させていくことにつながり、学校を卒業した後に引き続き家から通う場所として認知されていきました。

函館青年寮通所部は年々増え続ける利用ニーズに応じて定員増をかさね、1990年には働くことを中心とするワークショップはこだてと創作やレクリエーションなどの機会を提供する函館青年寮通所部の2か所体制となります。多様化する利用ニーズや利用する方たちの状態像の変化に対応するためでした。

通所の風景

作業所からの広がり

働く(福祉的就労)場所が地域の中で広域に必要とされる中、昭和61年には「おしま(第一、第二、第三)共同作業所」と立て続けに3箇所の小規模作業所を設置しています。

そのうちの一つ、おしま第三共働作業所を前身とした現在のおしま屋(弁当作り)は、平成3年に北海道で初めての福祉工場として開設されました。工場で働く人は、当時の一般的呼称であった園生ではなく、従業員と呼ばれるようになります。福祉施設でありながらも、最低賃金を保証する企業的性格が強い事業でした。

他にもダイエー上磯店でおしまコロニーのアンテナショップ的存在として親しまれた福祉の店「ゆうあいプラザ」(平成17年撤退)や、平成6年に開設されたクッキーハウス、平成11年に開設されたおしま菌床きのこセンターなどこうした通所施設は数ある事業の中でも、もっとも広がりや変化を見せた領域の一つでした。

おしま屋の前身、おしま第三共同作業所

グループホーム

グループホームが制度化されたのは平成元年のことですが、おしまコロニーではそれ以前から、共同作業所などでの収入と障がい基礎年金をもとにして、北海道単独事業である生活寮制度を活用して地域生活を可能にしていました。

平成4年には全国で初めて公営住宅を利用した「グループホームいしべつ荘」を開設します。

一般就労をする方ばかりではなく、街の中に働く(福祉的就労)場があり、暮らしの面でも衣食住などの部分的支援があれば、一般の職場で働くことが難しい方たちであっても街の中で暮らすことが出来る仕組みが少しずつ整えられていくことになりました。

グループホームいしべつ荘