ゆうあいの歴史

地図にない村、ゆうあいの郷が漁火の見える丘に誕生して50年のときが流れようとしています。 私たちの物語は、小さな保育園から始まりました。

序章:出会いと決断

ゆうあいの歴史は、昭和42年(1967年)に開設された知的障害児施設おしま学園から始まります。
しかし、そのルーツをたどるには、昭和28年に誕生した七重浜保育園(現七重浜こども園)までさかのぼる必要があります。
ことの起こりは、ゆうあいの創始者である大場茂俊と、函館市在住の無名の社会実業家であった金子家綱氏との出会いにありました。

若き日の大場茂俊(上)と金子家綱氏(下)

大場茂俊と清華育英会

1943年(昭和18年)

大場茂俊は1923(大正12)年、北海道樺戸郡月形村(現在の月形町)で4人兄弟の長男として生を受けました。
東京で弁護士を目指して働きながら学んでいたある時、久しぶりに帰省した函館で一枚のチラシに目を止めます。そこには返済義務を求めない奨学金の希望者を募集する内容が書かれていました。苦学生の大場にとっては願っても無い話でした。チラシを握りしめた大場は育英事業団体「清華育英会」の門を叩きます。

若き日の大場茂俊(上)と金子家綱氏(下)

金子家綱氏との出会い

1943年(昭和18年)

清華育英会は金子家綱氏という人物が始めた民間育英事業でした。「ただ若者たちが社会に役立つ人間に育って欲しい」の一念で、無条件、無返済で資金を援助するという驚くべきものでした。貧しい戦前の一地方において、このように崇高な思想を持つ人物がいたのです。

かくして、20歳の大場と、53歳の金子氏は邂逅を果たします。出会ったばかりの大場に、金子氏は一も二もなく奨学金の支給を決めました。大場は感動で身が震えるような思いであったと伝えられています。

その後も、金子氏の人柄と思想に惹かれ、交流は続きました。大場のその後の人生や、後年のおしまコロニーにおける取り組みなどに大きな影響を与えたであろうことは想像に難くありません。

決断、転機

1947年(昭和22年)

昭和20年、長く続いた戦争が終わり、翌年大場は大学を卒業して内閣直属の物価庁に入職しました。

その冬実家に帰省した折、いつものように金子氏を訪ねました。金子氏は病床にあり「俺が死んだら後を頼む」と言うと、書類や通帳なども持ってきて「育英事業を継ぐのは君しかいない」と懇願します。大場は悩み抜いた上でこの申し出を受けます。それはエリート官僚の道を捨て、先の見えない茨の道を進むことを意味しました。

その2ヶ月後、金子氏は帰らぬ人となり大場は約束通り物価庁に辞表を提出。上司や同僚の慰留を背に東京を後にし、函館について間も無く清華育英会の事業を受け継ぎました。

ときは昭和22年、おしまコロニーの誕生から遡ること、ちょうど20年前のことでした。

構想期:時代から必要とされて

予想されていたとはいえ、育英事業の資金繰りは苦労の連続でした。そこで自らの手でお金を生み出すために食用油を精油する工場を操業します。この頃、生涯の伴侶となる光(てる)と結婚。内助の功を得て精油事業は軌道にのり、七重浜に二つ目の油脂工場を操業させます。
当時七重浜には保育園がありませんでした。水産加工の中心的働き手であった主婦たちから「保育園がほしい」という相談が大場たちの元に持ち込まれます。

七重浜保育園

個別学習の様子

視察先のアルトハイデルベルヒにて

当別保育園

建設予定地の杭

七重浜保育園の開設

1953年(昭和28年)

「わかりました、場所は私の家を提供しましょう」
以前より、子どもをおんぶしながらイカの墨にまみれて働く主婦の姿を見ていた大場は、保育園を開設する決断をしました。

昭和28年、厚生省の認可が下りて七重浜保育園が誕生。自宅を改造して作った保育室に、婦人会から寄贈を受けたオルガン1台からのスタートでした。

保育園での苦労話には枚挙にいとまがありません。しかし、今度は地域の人たちが大場を支えてくれるようになり、開設から10年が経つ頃には定員も開設当初の倍の100名を数えるようになります。

この頃時代の流れも手伝って清華育英会は発展的解散、製油所などの事業からも撤退、保育事業に専念していくことになります。

七重浜保育園

障がい児との出会い

1960年(昭和35年)

昭和35年、初代七重浜保育園園長である父 吉太郎氏が死去。大場は園長となりました。

当時の遊戯室には大場が筆書きした「子どもは大事にするものだ」という紙が貼られており、子ども達やその家族が幸せになると思ったことはどんなことでもやり遂げようという思いでした。

そのため障がいのあるなしは問題にはしませんでした。分け隔てのない保育をする一方で、大場は園長室で個別学習をするようになり、遅れがある子供ほど目をかけ、手をかけ、心を砕くようになります。

しかし当時、そういった子ども達の多くは義務教育を受けることができませんでした。また小学校に入学することができても、迷惑がられたりいじめに等しい扱いを受ける子どももいました。

学齢児になっても七重浜保育園に戻ってくる子ども達が後をたちませんでした。また、他の保育園で入園を断られた子どもの家族が評判を聞いて七重浜保育園を訪れるようになっていました。

大場はどんなに忙しくても、家族からの相談には丁寧に応じ、一人ひとりの状況をノートに書きとどめ続けました。

個別学習の様子

社会福祉法人化へ

1963年(昭和38年)

「障がいのある子供に教育の機会を」
大場達は障がい者福祉の道を進む決断をします。

覚悟を決めてからの行動は迅速でした。大学に入り直して社会福祉に関する勉強を重ね、全国各地の福祉施設を訪ね歩いては見識を広げました。

また、本格的に障がい者福祉の分野に踏み込んでいくには、個人経営から社会的責任を明らかにした法人格への衣替えが必要と判断します。

そうして、昭和38年10月、個人の資産を全て寄付して「社会福祉法人侑愛会」を設立しました。

侑という字は「ゆるす」「むくいる」「たすける」などの意味があります。またここでいう愛とは「無私・無償」の「慈愛」を意味します。侑愛という字は、障がい児も私たち自身も無私の愛で共に有り、ともに育ち合う社会を目指す願いが込められたものでした。

欧米視察旅行

1963年(昭和38年)

法人化を果たした同年、大場と光夫人は欧米諸国へ2ヶ月間の視察旅行へ向かいました。将来を見据えた構想を練るために海外の先進的な取り組みをどうしてもこの目で見ておく必要があったのです。

オランダでは一人当たりの居住スペースの広さに驚き、障がいのある人たちの生涯を支える総合的な仕組みを用意するには、最低でも10万坪の広さが欲しいと考えるようになります。ライフステージに応じた施設機能や設備が必要となるからです。

デンマークではノーマライゼーションの思想に触れ、以来、大場の頭からは寝ても覚めても10万坪の広さの土地とノーマライゼーション思想が離れることはありませんでした。

視察先のアルトハイデルベルヒにて

おしまコロニーの青写真と当別保育園の開設

1966年(昭和41年)

大場の目にはすでにおしまコロニーの姿が見えていました。当時描かれた壮大な青写真は荒唐無稽と思われましたが、後年、非常に緻密で根拠のあるものだったことが証明されていくことになります。

大場達はさっそく土地探しを始めますが、何しろ10万坪の広さです。そう簡単に見つかるはずもありません。何日もまわった末、渡島当別にたどり着きました。そこはトラピスト修道院が所有する牧草地、函館山を望む丘の上にありました。

交渉はまとまりませんでしたが、大場たちはこの時、トラピストの鐘の音が聞こえるこの地で事業を始めたいと強く願うようになります。

そんな矢先、上磯町から渡島当別にある無線中継所を払い下げるので、そこで保育園をやらないかという話を受け、昭和41年、当別保育園を開設します。

大場も保育園に泊まり込んで保育にあたり、地元住民との交流を深めていきます。

当別保育園

強い風当たりと未来への杭

1967年(昭和42年)

当時、障がい者への風当たりは現在と比ぶべくもないほど強い時代でした。土地探しの中では地元の一部から強い反対運動を受けるなど、思いもよらぬ形で頓挫するものもありましたが、大場達はいずれ障がいのある子どもたちと実際に触れ合うことで、そうした誤解や偏見は解けていくものと信じていました。

そんな中、トラピスト修道院から沢ひとつ隔てた場所にある土地の購入交渉がまとまります。それが現在のゆうあいの郷のある場所です。

しかし、喜びに浸る暇などありません。建設資金をどう捻出するかという問題がありました。悩み抜いた末、5千万円(現代の1億〜1億5千万)という当時としては途方も無い借金を背負う決断をします。こうして生まれたのが最初の知的障害児施設おしま学園です。

走り出した大場はもはや誰にも止めることはできませんでした。しかし、無謀ともいえる行動力や意思の強さ、そして一途な想いに魅せられた人たちを引きつけて離さない力がそこにはありました。

建設予定地の杭